
roaster
今でも小説家になりたい僕が生まれて始めて最後まで書き上げた小説は、食料難の東京でどこからともなく肉を調達してきてシステマティックに焼く男の話だった。彼は墨汁みたいになめらかで艶めいた黒のフォルクスワーゲンに乗り、不法労働者を拉致してきて食肉に仕立て上げる。高校二年生の頃、国語の授業の課題だった。
人間を焼いて食う話を読んだ若い女の先生は「独創的でよろしい」という評価をして期末の成績表には5をくれた。母親は泣き出して「なんでこんな話を書くようになっちゃったの」と言って自室に篭りきりになった。一緒に「辞書をぱっと開いたところにある単語をタイトルにして書いてこようぜ」と約束した友人は自分の短編を仕上げてこなかった。ノートはどこかへ行ってしまったのでもう読むことはできないが、とにかくそんなひどい話が僕のはじめての小説となった。
暴力に魅せられる人々
僕は常に「暴力」というものに魅せられている。
もちろん日常生活ではそんなことはおくびにも出さない。涼しい顔をして「他人を殴るなんてまともな人間のすることじゃない」と言ってのける。それでも、ひとたび家に帰ってみれば本棚にあるほとんどの本が暴力や暗い感情をテーマにしたものだし、日課はこれまでに日本で起きた未解決事件のデータベースを漁ることだ。正確に言うと、僕は「人間と暴力の関係性」にこそ興味を持っている。その人がどんな人間で、どんな暴力を好むのか。それはフィクションの中であっても実際に起こった事件の中であっても変わりない。
誤解のないように言っておきたいのだが、僕は「振るわれた暴力」をけして肯定はしない。本当に、心の底から、人が人を暴力で傷つけるなんてあってはならないことだと思っている。でもヒトである以上どこかでかならず暴力と関わり合って生きているはずだ──哀しい話だが。ならば僕はいっそのこと、その暴力ともっと向き合ってみたいだけなのだ。それをただ恐がって、道の端に追いやって迂回して通るようなことをあまりしたくないだけなのだ。
今回読んだ「煙か土か食い物」にも、暗く深い暴力の影が染みついている。そしてそれは僕の人生のテーマでもある「家族」というところにしっかりと結びつけられている。家族と暴力。
小説のジャンルとしては(僕は小説のジャンルってよくわからないんだけど)ミステリーというところに入るのかもしれない。事件のようなものも起きるし、それに対する推理もなされて最後には種明かしがある。でも僕はこの小説を「家族と暴力」に焦点を当てて読み進んだ。主人公はある一族の四男で、サンディエゴで外科医をしている。家族の他のメンバーからするといささか異端である。長男はエリート指向で東大を出て政界へ入る。次男は高校生の時に失踪する。三男は売れない小説家。父親は昔からひどい暴力を息子たちに振るう。その父親は祖父によってひどい暴力を振るわれていた。血と暴力によって結びつけられた奈津川家。
暴力に寄り添った文体
僕が感心したのは、ともすれば乱雑と受け取られかねない彼独自の「文体」が、この重たいテーマとぴったり合致していたことである。いや、これは実際に乱雑なのかもしれない。勢いにまかせて書きなぐった文章、としか読めない箇所も多い。練られず、推敲されてもいない稚拙な文章に見えることもある。でも、そんな無茶苦茶な文体が実に気持ちよく小説の暴力性と寄り添っている。もうこの内容にはこの文体しかないね、今はそう言ってしまってもいい。
実際、その後に読んだ彼の短編集は僕にいまいち訴えかけてこなかった。そこで語られている暴力が(そう、やはり暴力については一応語られているのだが)何となくとってつけたもののように思えてしまう。あるいは「血」という要素がなかったからかもしれない。僕にとってそこはかなり大事な要素になる。何といっても人生のテーマなのだ。
僕は改めて奈津川家の物語の続編を手に取ることにする。「暗闇の中で子供」。次はこれを読むことにしよう。僕の心は新しい暴力の予感に触れてざわざわと躍る。
11/09/2008 at 3:05 Permalink
暴力、という言葉には
なんとなく積極的な雰囲気がありますね。
けれど現実には
明らかに「暴力の体」なんだけど、
どうしようもなく分類不可能な現象が起こりますね。
私は電車の中で知らない男に、
顔面を膝蹴りされたことがあります。
そこにはなんの悪意もなかったのだけど、
私はこれを「暴力」と見なし、
多くのことを感じて学んだよ。
ただ、痛みが、人のテンションを下げるのだな、とか。
11/09/2008 at 8:18 Permalink
コメントっていうのはやっぱりいいね。
僕はほとんど訳もわからずがむしゃらに文章を書いているわけだけど
そこに何かを読み取ってくれて自分の文章を残してくれる、っていうのは
本当に面白いシステム。僕にとっては、だけど。
> 木村
積極的ね。なるほど。
自らの力を他者に激しくぶつけるわけだから、積極的だよね。
人間って殴られれば痛いっていうことをわかっているのに
他人を殴ろうとすることは結構多い。
コミュニケーションしようとしているのかな。
でも「顔面膝蹴り」は明らかに事故なんだろうけど
木村はるか側から見ると「暴力を受けた」ことになるわけで
コミュニケーションではない。
うむむ。意外に深いぞ、この話。
13/09/2008 at 3:24 Permalink
うん。
だから私その一件以来、
暴力の正体が掴めないんだ。
誰をも責めるべきでないことはわかっているのに、
私のテンションはだだ下がったし、
ともすれば「電車恐い」「男性恐い」とか言い出しかねないほど、
ビックリ!して、痛くて恐かった。
でもその時そこにいただれにも、
悪意も積極もコミュニケーションも、なくて。
んー、まぁやっぱり「故意かどうか」がネックですかねー